終戦と呉

昭和20(1945)年8月15日、終戦をむかえました。

空襲(くうしゅう)により、呉にしていた多くの艦艇(かんてい)は破壊(はかい)され、呉市街地も焼け野原となってしまいました。

日本は連合国軍(れんごうこくぐん)に占領(せんりょう)されることとなります。

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空襲(くうしゅう)で荒れ果てた市街地〈J.Watkins-提供〉

敗戦により、海軍は解体(かいたい)され、呉海軍工廠(こうしょう)は活動を停止しました。

その後、連合国軍による指導のもと、兵器(へいき)の解体が始まりました。

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ほぼ解体(かいたい)が終わった巡洋艦(じゅんようかん)「大淀(おおよど)」

混乱する生活

空襲と敗戦により、人々の生活は苦しいものでした。

企業(きぎょう)の活動は押さえつけられ、多くの失業者が生まれました。

厳しい環境(かんきょう)の中、呉市は戦後の未来像を「平和産業港湾都市(へいわさんぎょうこうわんとし)と定め、昭和23(1948)年、呉港の開港に成功します。

平和のために使うことにしたのね!

さらに、鎮守府(ちんじゅふ)の置かれていた市と協力して、海軍のもっていた用地や施設を平和産業に利用するための運動を開始しました。

しかしが始まり、呉市はそのの役割を担うこととなります。

この戦争にともない、アメリカからたくさんのの注文が入り、呉市の経済はうるおうこととなりました。

平和利用に歩み出したのに、戦争が始まってしまったんだね。

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旧呉工廠配置計画図

旧呉海軍工廠跡産業利用計画図

呉海軍工廠跡地(あとち)を利用した各種産業、計画道路、鉄道などの配置計画図です。呉海軍工廠の強みを活かした計画内容となっています。